平成8年卒
葦原一正
公益社団法人 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(B.LEAGUE)
理事・事務局長
6年間の苦しさとあの夏の悔しさと。
203番。海城中の受験番号です。小学生のときに何校か文化祭を見学し、一番フィーリングが合ったのが海城で、目標としていましたから、合格発表でこの番号を見つけたときは、すごくうれしかったですね。
海城は、当時“新御三家”なんて言われていて、優秀な子が多かったですけど、みんな馬鹿ばっかりやっていて(笑)、普通の男の子でしたね。僕自身は、目立たなくて、集合写真の端っこに写っているようなタイプでした。
もがき苦しんだ6年間
6年間で、一番印象に残っているのは、野球部の夏の大会。高3のときの3回戦、修徳戦です。試合前日、レギュラーではない僕のところに、キャプテンから電話がかかってきて、「先発、どうしよう?」と。当時、2年生投手が急成長していたので悩んだらしいです。修徳は強豪でしたけど、僕らもその大会が集大成だったので負けたくなかった。試合中は人生で一番、アドレナリンが出ていましたし、あの試合の一瞬、一瞬は今でも覚えています。試合に負けたときは、終わったという気持ちもあったし、悔しい気持ちもあったし…。実は、大会中、同学年でバッターボックスに立っていないのは、僕だけだったんですよ。だから、余計に悔しくて。
中学のときにはスタメンだったのですが、高校生になると、だんだん使われなくなり。もう必死でしたよ、レギュラーになりたいって。がんばって練習するんだけど、ぜんぜん上手くいかない。中高時代は、もがき苦しんでいましたね。学業の成績も悪くて、中2の担任だった茂木先生からは、「人間、性格だけじゃ食べていけないぞ」と言われたこともありました。それで、努力はしてみるものの、成績も上がらず。負のスパイラルに陥ってた感じでした。
でも、野球部を辞めようとは思わなかった。スポーツ好きだし、野球大好きだし。仲間たちと「甲子園行くぞ!」と同じ目標をめざして、練習していましたね。だから、試合に出られなくても腐らずに、めちゃくちゃ声を出していました。それを見ていてくれたのが、野球部顧問の田中先生。他の部員に「葦原だけ声出してがんばっているんだから、お前らもやれ」と。その言葉はすごく覚えていますね。
田中先生はとても厳しい先生で、あまり褒めることはしなかったのですが、僕らには「お前らは、いいものを持ってるんだ」と言い続けていました。その言葉の力で、がんばれましたし、自信をつけていたと思います。実は、それなりに強かった代なんですよ!
先生方からの言葉、一つひとつは、今でも心に残っていますね。中学のときに教わった宇津川先生は「大事なのはアイデンティティーだ」とずっと言っていました。当時は何も思わなかったですけど、今、振り返ると潜在的に考えていたのかもしれません。アイデンティティーって何だろう? ああ、自分でちゃんと考えて表現するということか、自己をしっかり確立しろということかって。
茂木先生には、口癖があってね。何か悪いことをすると、そっと「え? そんなことしていいんだっけ?」と言うんです。僕も仕事で、茂木先生の所作を真似しています。若い子があきらかに手を抜いていたりすると、ちょっと間を置いてから「そんなことしていいんだっけ?」と(笑)。
中学3年。揺るぎない想いと出会う
雑誌『週刊ベースボール』にトレーナーの記事を見つけたのは、中3のとき。選手でなくても、スポーツでご飯を食べていけるんだと初めて知り、スポーツの仕事に就きたいと思いました。そこで、大学受験では、早稲田大学の人間科学部を志望。併願で、理工学部も受けました。先に、発表のあった理工学部は合格したので、翌週の人間科学部も受かっていると思い込み、初めて親に言ったんです。「スポーツの仕事がしたい。人間科学は俺のためにある学部だから、絶対にそっちに行く」と。そうしたら、親は断固反対。まぁ、揉めましたね(笑)。そして、翌週、人間科学部の合格発表を見に行くと、自分の番号がないわけです。やっぱり人生ってうまくいかないんだと思いました。でも、一浪していて、これ以上、親に迷惑はかけられないので、理工学部に進学しました。
大学2年生になると、“スポーツビジネス”という言葉が世の中に出始めたんです。「あ、これだ」と思いましたね。それで、人間科学部に行って、スポーツ系の授業を聞いたり、スポーツビジネスに関わる方にお会いして、話を聞いたり。少しずつスポーツのネットワークを広げていきました。
卒業後は、大学院へ。そこでは、交換留学で1年間、フランスに行きました。なぜ、フランスか? 英語圏だと競争率が高いので、例年、応募のない大学院を探したんです(笑)。一応、第二外国語はフランス語でしたし。面接には、“お決まり”の質問のみを頭に叩き込んで臨み、後は笑顔と勘で合格を勝ち取りました。でも、現地での授業はどうする? 考えた結果、日本大好きなフランス人と仲良くなって、一緒に授業に出て助けてもらいました(笑)。
大学院修了後は、スポーツ界に身を投じるのであれば、余所でスキルを磨いてからの方がいいとの関係者からのアドバイスもあり、外資系コンサルティングファームに就職。その後、プロ野球球団のオリックス・バッファローズへ。給料は半減、勤務地も東京から大阪に、という条件でしたので、結婚して1か月の妻には結婚詐欺だと言われましたが(笑)、やっぱり野球が好きだし、ここしかないと思って飛び込みました。念願のスポーツ界、がむしゃらに働きましたね。それから、DeNAベイスターズを経て、現在は、Bリーグで事務局長を務めています。どの環境にあっても、考えの根底には、今までと同じことをやっていても意味がない、新しい仕組みやサービス等を取り入れていくことが大事だと思っています。
悔しさが源泉に
いま、スポーツの世界で仕事をしていますが、僕の中高時代のスポーツは落第生。その悔しさが、僕のパワーの源泉になっています。だから、成績や何かで劣等感を持っている子には伝えたいですね。がんばれば、道は拓けるよって。自分なりの考え、信念を持って、一生懸命やっていたら、周りの人が助けてくれたりして、うまくいくこともある。だから、想いを大事にしてほしい。それを、自分の中でバシッと決めることができると、6年間続ける意味があるし、自分自身でそれを問い詰めていく作業は、意外と大事なことだと思っています。
僕も、ここまで来たら、とことんやりますよ、スポーツの世界で。中3のときに志してから25年間、ぶれずに抱いてきた想いです。フランス留学で、欧州のさまざまなスポーツを見てきましたが、日本のスポーツはまだまだこれから。今後も、日本のスポーツをビジネスとして形成、発展させていく一助となりたいと思います。
葦原 一正
公益社団法人 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(B.LEAGUE)
理事・事務局長